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August 28, 1999

音楽の現在~海外の潮流・中国特集~管弦楽

今日は7夜続いたサントリー音楽財団30周年記念サマーフェスティバルの大団円の前日である。明日<20世紀の名曲展・管弦楽>でシェーンベルクの『グレの歌』が演奏され、この企画の幕が降りる。今日は<音楽の現在>と題された新進作曲家の作品が演奏される夜だ。今宵のプログラムは中国にルーツをもつ若手作曲家たちの作品。そのリーダー格とも言える譚盾がプログラムをコーディネート、自身が東京都交響楽団を指揮しての演奏会となった。
 譚盾を除いて、僕はどの作曲家も知らない。しかし、演奏された作品は或いはエネルギッシュであり或いは繊細であり、十分楽しめるものだった。まずサントリーホールに集まった聴衆はいつもと違っていた。おそらく自国のアート作品を確認しようという在日の中国の学生。そして同時代の日本の学生。若く、奇抜なイメージの聴衆がサントリーに集まっていた。面白い。演奏への期待も高まった。

 中国、って実は僕、縁が深い。この1年というもの、何度中国に行ったことか。中国の現在、というものについて僕はある程度知っているし、それを少しは語る資格があると思う。現代中国に限らず、中国人のユニバーサル感覚って凄いなと思うことがよくある。中国人である一定以上の経済力を持つ人々は、まず間違いなく、家族を西洋社会のあちらこちらに留学させるだろう。中国人の裕福な老人と話すと、シアトルにいる娘の話、ボストンにいる孫の話など、世界各地に親戚がいるのだということを自慢気に語る。これは彼らお得意の経済感覚によるリスク分散なのだろうか。とにかく世界は中国人にとってはそう広くはないようだ。
今夜の主役である若い中国人作曲家たちも例外無く、今では西洋社会の住人だ。歌劇団で編曲をしていた20歳の時、初めてベートーヴェンの第5シンフォニーを聴いて作曲家を目指したと言う譚盾はニューヨーク在住。その他の作曲家たちもアメリカやヨーロッパで活動している。

 さて今夜最初のプログラムは広州生まれの女流、陳怡(チェン・イ)の《モメンタム》である。全般に土俗的な香りの強い作品である。金管の低音強奏が随所に用いられており、シュミット等少し東欧の現代作曲家との共通点が見出される。土俗的舞曲風のリズムにエネルギーは感じながらも、この曲が僕の心に迫るということはなかった。
 続いて演奏されたのは盛中亮(ブライト・シェン)の《はがき》である。この作品は遠くにいる知人へ当てた「絵葉書」をイメージした「音はがき」である。つまり非常に描写性の高い楽曲といえるだろう。描写性ということでは、リヒャルト・シュトラウスやリムスキー・コルサコフが思い浮かぶが、この作曲家の作品が持っている凝縮性というか、作品のスケールが決して小さいというわけではなく、宝石のような強い内向性、内に向かう力を感じさせる音楽は、ディーリアスに共通するのではないか。そんなことを思った。

 陳其鋼(チェン・キガン)の《五行(水・木・火・土・金》は実に楽しめる音楽だった。物質世界の5つの基本要素、木・火・土・金・水を作曲家の自由なイメージでこの順番に並べなおし、更に、各段を2分、計10分で演奏される短さ、分かりやすさを持つ楽曲に構成した。最初の音が奏でられた瞬間、僕はライナーノーツを確認した。やはり。彼はフランスで学んだメシアン最後の弟子だったのだ。不思議なもので、フランスの響きは遠いアジアから学びに来た学生の血肉となって、今ここにその姿を現しているのだ。ドビュッシーにも通じる軽さと明るさ。快活な木管のパッセージ。東京都交響楽団の演奏も十分に作品の魅力を伝えてくれたと思う。
 続いて演奏された陳遠林(チェン・ユァンリン)の序曲―ラプソディ~オーケストラのための、は世界初演。つまり、記念すべき場所と時間を僕は共有したわけである。作曲家の陳遠林(チェン・ユァンリン)も姿を見せた。拍手も大きかった。しかし、僕の心に記憶されたのは文字データだけなのである。どんな魅力的な音響構成があったのか、どんなに美しいパッセージがあったのか、まったく覚えていない。そして総合的な記憶すら僕にはないのである。これはある種の不幸だが、現実である。どこかでまた幸福な出会いがあるといいのだが。

 最後の曲は指揮者の譚盾の作品。ウォーターパーカッションのための協奏曲である。ウォーターパーカッションはおそらくこの曲のために、打楽器奏者のクリストファー・ラムと譚盾が共同で作り上げた楽器である。大きな、そう1メートル弱ほどの直径を持つボールに頑丈な足がついた楽器に水が満たされている。これがステージ中央、ピアノ協奏曲でピアノが置かれる辺りに設置されている。ステージ左右には、若干小振りな同様の楽器が置かれ、2人の打楽器奏者がこれを担当する。
 実際には真っ暗にされたホールに不気味な音を奏でながら、打楽器奏者が入場してくるところから楽曲が始まる。音の主は金属の楽器、トロンボーンのミュートくらいの大きさの三角形の塊をおそらくヴァイオリンの弓で擦って音を発している。この音がどこからともなく聞こえ、やがて奏者の姿とともにオーケストラが姿を現す。先に触れた大きなボールのようなウォーターパーカッションは、水面に照明が当てられるように設置されており、光の反射がホールの天井や壁に複雑な波紋を映す。それすらも作品の一部なのだ。

 演奏は、水を湛えたボールをいろいろなツールや手で叩いて水音を発し、それとオーケストラが絡むことによって、音楽が複雑性を呈して行く。最初、僕は非常に面白いなあと感じ、引き込まれて行ったのであるが、徐々に醒めていく自分を抑えることができなかった。これは何なのだろう。形式の崩壊。形式の刷新。形式の創造。或いは形式の忌避か。しかし、これはコンサートなのか。音楽作品なのか。これが面白くないかと問われれば、文句無く面白いのだ。しかし、何かの違和感、或いは危うさのようなものを僕は感じ取っている。そしてこの危うさは、例のスティーブ・ライヒの“THE CAVE”からは感じられない危うさなのだ。

 タイプライターのような言葉の発し方とビデオの組み合わせという奇抜なスタイルのライヒにもある種の安定感があった。そうスタイルがあったのだ。しかし、今聴いているこの曲には何もない。この曲を形作っていく「芯」が無い。僕にはそう思えた。面白ければいいのか。確かにこの曲は面白い。面白いけれども、それではライブ・パフォーマンスにしかなり得ないのではないか。これは保存されるべき、時間を超えるべき音楽作品なのだろうか。それとも即時的なインスタレーションなのであろうか。或いは、ナンセンスなパフォーマンスなのであろうか。譚盾にはもちろん狙うところが明かであり、それがまんまと実現できた演奏会だったのかも知れない。しかし、僕には大きな大きな「?」が残ってしまった。今日は眠れそうにない。

●演奏曲目
 陳怡(チェン・イ)
 《モメンタム(動勢)》~オーケストラのための(1998)日本初演

 盛中亮(ブライト・シェン)
 《はがき》 (1998)日本初演

 陳其鋼(チェン・キガン)
 《五行(水・木・火・土・金》~オーケストラのための (1999)日本初演

 陳遠林(チェン・ユァンリン)
 序曲―ラプソディ~オーケストラのための (1999)世界初演

 譚盾(タン・ドゥン)
 ウォーターパーカッションとオーケストラのための協奏曲~武満徹の思い出に(1999)日本初演

●演奏
 譚盾(指揮)
 クリストファー・ラム(打楽器・ニューヨークフィルハーモニック主席)
 東京都交響楽団(管弦楽)

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August 27, 1999

20世紀の音楽名曲展・室内楽

 20世紀音楽名曲展とは思いきったタイトルだ。20世紀の室内楽をこの4曲で総括する。もしも僕が4曲で今世紀の室内楽を総括するとしたらどんな曲で構成するだろうか。もちろん名曲は星の数ほど存在するが、ここで総括するのは20世紀の室内楽であり、そのストーリーはおそらく今世紀の音楽史の「幹」にあたるものでなけれはならないはずだ。そう考えると単に民族主義的な立場での創作にとどまらず、音楽の歴史に大きな影響を与える、いやむしろそれ自体が音楽の歴史に流れを作った、そんな曲を持ってこなければならないだろう。

 今夜のプログラムはその点で考え抜かれた構成になっていると思う。更にそれが企画倒れではなく、力のある演奏によって再現されていた。調性の崩壊をヴィーン楽派ではなく、ドビュッシーに見られる無調志向に託し、更にこの「朗読のための付随音楽《ビリティスの歌》」に顕著な、19世紀ロマン主義の残照のような表題性や西洋社会の底流を流れるギリシャへのノスタルジーも包括してこの20世紀が始まって行くことを聴衆に見事に意識させた。バルトークでは20世紀を貫く人間的な意志の力を十分に表出している。そのバルトークの音楽に内包される無垢な人間賛歌は、近代科学技術を拠り所とした絶え間無い発展という20世紀後半まで続く直線的な価値観に通じるものを感じさせる。

 僕はバルトークの音楽が大好きである。多様な形を取りながらもその作品から感じられる強靭な意志はすべて同じ方向を向いているように僕には感じられる。晩年は不幸の底に沈んだこの偉大な作曲家の目は、限りなくポジティブに人間とこの世界のすべてを見据えていたように思えて仕方が無いのだ。今回の演奏はピンと張り詰めた緊張感が快い。そしてあくまでもポジティブに人間を内省するバルトークの想いが僕には痛いほどに伝わってきた。身体が熱くなった。真摯にバルトークに対峙した演奏者の方々にも拍手を贈りたい。しかし、僕はこの大好きなバルトークすら相対化していきたい。それがケージの役割である。
 この作品《第1構成》が「金属で」の副題を持っているのは、ストリング・ピアノ(プリペアド・ピアノ)やサンダーシート、ウォーターゴングなどの珍しい楽器の響きすべてが「金属」から導かれるということに由来している。僕はこの曲の演奏を初めて聴いたが、より急進性を増して行く後期の作品に比べて、非常に聞きやすく面白いものだった。ノイズと楽音の差を意識させようとするケージの試みは、芸術の意味を拡張しようとしたヨーゼフ・ボイスの試みにも通じるものがある。ボイスがアートの排他性を批判し、社会彫刻という新しい概念を産み出したのと同様に、ケージは楽音の排他性を脱し、ノイズすらその領域とする音楽の姿を求めたのだ。

 この夜最後の楽曲は、ストラヴィンスキーの手になる管楽八重奏曲であった。ストラヴィンスキーといえば「春の祭典」や「火の鳥」などのバレエ音楽が最もポピュラーである。そこに見られるバーバリズムをストラヴィンスキーとイコールで捉えてしまうと、この管楽八重奏曲などは肩透かしの最たるものになるはずだ。流石カメレオン作曲家の異名をとるストラヴィンスキー。大規模なバレエの後は、「プルチネルラ」を皮切りに新古典主義時代に突入する。「プルチネルラ」は僕の大好きな曲のひとつ。その様式の美しさ、安定度は素晴らしいと思う。そして管楽八重奏曲。この曲に関してストラヴィンスキーは「私の八重奏曲は一つの音楽的なオブジェである」と述べている。各曲は特定の管楽器が主役か準主役として展開する。ストラヴィンスキーの言うオブジェとは管楽器とその響き自体を指しているのではないか。聴きながら僕はそんなことを考えていた。管楽器への愛情と完成されたオブジェとしての楽曲という点で、ストラヴィンスキーの新古典主義の楽曲からは、バッハが残した偉大な作品のうち、フルートソナタやパルティータなどとの共通性を僕は感じている。バッハから200年以上を経て、20世紀の音楽はクルクルと螺旋を描きながら、またバッハの上空を通過しているのかも知れない。演奏は総じて熱のこもったすばらしいものだった。凝縮された時間をすごすことができたことを演奏者の皆さんに感謝したいと思う。さて管弦楽による20世紀音楽の総括はシェーンベルクの「グレの歌」ということだが、このプログラムは聴きにいけそうにない。とても残念である。

●演奏曲目
 ドビュッシー:《ビリティスの歌》
 バルトーク:弦楽四重奏曲第5番
 ケージ:《コンストラクション第1「金属で」》
 ストラヴィンスキー:管樂八重奏曲

●演奏者
 朗読:エストレリータ・ワッセルマン
 ハープ:篠崎史子、篠崎和子
 フルート:小泉浩、高桑英世、木ノ脇道元
 チェレスタ:小坂圭太
 ヴァイオリン:松原勝也、鈴木理恵子
 ヴィオラ:柳瀬省太
 チェロ:山崎伸
 打楽器:吉原すみれ、山口恭範他
 クラリネット:菊地秀夫
 ファゴット:大畠條亮、前田征志
 トランペット:高橋敦、山川洋樹
 トロンボーン:古賀慎治、奥村晃
 指揮:佐藤紀雄

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August 24, 1999

「作曲家の個展」委嘱作品特集

サントリー音楽財団の創設30周年に当たる今年は、サントリー創業100周年でもあるらしい。そんな理由もあり、魅力的なプログラムが7夜に渡って用意された。8月23日~25日が81年から継続している「作曲家の個展」シリーズ。8月26日・28日は、<音楽の現在>と題して中国の若手作曲家の作品が演奏される。そして8月27日と30日は20世紀を代表・象徴する楽曲による<20世紀の音楽名曲展>が室内楽と管弦楽でそれぞれ1夜ずつ企画されている。これらのコンサートの間に、作曲家自身のトークなどが織り込まれ、非常に充実した内容になっている。

サントリーホールへ向かう道。その前方に激しい稲妻が走る。どうも天候が怪しい。僕は遭遇しなかったが、タクシードライバーの話によると今日はあちこちで局地的な大豪雨になっているらしい。神谷町からホテルオークラの横を抜けて、アークヒルズの上で車を停めてもらう。サントリーホールまであと2分。それでも雨が降りはしないかと心配で、駆け足でホールに滑り込んだ。まずはシャンパンを、という気分でもなかったのでビールとサンドイッチで一息つく。ふと隣りを見ると、翌25日の演奏会を控えたマエストロ岩城宏之さんと奥様の木村かをりさん。「こんにちは」と軽く挨拶をして、目線を変えると前方から今日の1曲目《風姿》の作曲家、石井真木さんが歩いてきた。石井さんには仕事でベルリンに滞在したおり、自家用車で市内を連れ回って頂いたことがある。声も大きいし、身体も堂々たる真木さんは、それでも子供のように大好きなベルリンについていろいろとお話をしてくれたことが思い出された。日本現代の音楽会はこうした出会いがあるから楽しい。なぜか作曲家や演奏家の方々を通常のプログラムで見かけることはあまりないのだ。

指揮は外山雄三さん。非常に知的でメリハリのある演奏をする指揮者だ。僕は過去、名古屋フィルハーモニーの音楽監督時代に何度も素晴らしい演奏会を経験した。外山さんと名古屋フィルのイベントで「ラデッキー行進曲」を指揮させてもらったこともある。当時の僕は高校の吹奏楽部の指揮をしており、調子に乗って指揮させていただいたのだが、これまた楽しい思い出として強く記憶されている。

《風姿》は大まかに「序破急」の形を取る自由な楽曲。管弦楽の強奏に続いて木管楽器や弦楽器が余韻のようなフレーズを奏でる。さらにヴィブラフォンやチェレスタといったこの世のものとは思えない響きをもたらす楽器に主役が移って行く。そしてまた2人のティンパニ奏者がフォルテイッシモを送り出す。テュッティ(全奏)では、すべての楽器が自由を与えられている。通常のオーケストラ音楽では、弦楽器はボウイングを揃えているため、あたかもオーケストラ全体がひとつの楽器のように統一した外観を呈する。しかし、この《風姿》では各楽器、各演奏者に自由を与えたため、視覚的にバラバラな印象を与える。そして耳に聞こえるパサージュがまたバラバラ。つまり視覚的にも聴覚的にも、統一した印象を与えない作りになっている。僕はそうしたオーケストラの様子を見ながら、この音楽についての思考にとらわれて行った。

音楽が「美しい」ってなんだろう。音楽は「美しく」なければならないのだろうか。よく聞かれる現代音楽批判として「何だか分からない」「キレイじゃない」「難解」という言葉が現れる。音楽は美しいことを目指しているものなのだろうか。我々音楽好きは、知らず知らずのうちに「そうに決まっている」という前提で居るのではないだろうか。音楽は常に美しくあろうとしているのではなく、その有り様が美しいときもあるのではないだろうか。少なくとも近代以降の音楽は、哲学的思考の最前線といってもいいだろう。長い年月で積み重ねられてきた「知」の一段一段を検証しながら、注意深く次の一段を積み上げる。伴奏を否定し、拍子を否定し、音階を否定し、形式を否定して。それはいまも楽しく美しい「音楽」であり続けられるのだろうか。

少なくとも僕が今聴いている《風姿》は、決して僕の中で「美しい」という言葉で形容されるような音楽ではない。しかし、これは十分にスリリングでエキサイティングな知の実験だと思う。こうした僕の思考が正しいものかどうか今は分からない。しかし当面の間、僕はこのような音楽作品には一元的に「美しさ」を求めることはやめよう。知的な実験が「美しく」響くこともあると受けとめていこうと思う。《風姿》はこうしたことを考えさせるには十分過ぎるほど十分な作品だった。そして随所に僕が「美しい」と感じるパサージュが隠されていた。

続いて演奏された《八月の正午に太陽は……》を聴くのは2回目である。過去うっすらとした記憶では岩城寛之さんの指揮だったのではなかろうか。1楽章は4+5或いは5+4の変拍子とライナーノーツにあるが、耳に聞こえるリズムは2+2+2+3である。僕はこうした変拍子がとても好きだ。2分の2拍子などよりも遥かに、推進力を感じるからだ。そもそも自然界のリズムは変拍子が基本なのかも知れない。マーチを歩く動物など見たことが無いわけである。演奏は最終3楽章まで、破綻のない立派なものであったが、初めて聴いた時ほどの感銘は受けずに演奏は終わった。

最後のプログラムは西村朗さんのアストラル協奏曲 《光の鏡》である。この曲に関して、その構造はほとんどと言って良いほど僕には伝わってこなかった。しかし、「響き」だけは強い印象を以って訴えかけてきた。その「響き」の主役は「オンド・マルトノ」である。メシアンの「トゥーランガリラ交響曲」で有名な電子楽器である。休憩の時に、舞台に設置されたオンド・マルトノの周囲には、この珍しい楽器を確認する人だかりができていた。もちろん僕もその中の一人である。鍵盤楽器、である。さらに電子楽器、である。全部で8つほどのパーツから成り立っている、ようである。怪異な形である。そしてその響きは更に怪異なものだった。シタールのような響きも、胡弓のような響きも、この世のものとは思えない響きを自由に操る原田節さんには感嘆した。

《風姿》での左脳、オンド・マルトノでの右脳と、脳をフル回転させた一夜だった。

●演奏曲目
 石井真木:《風姿》 ~管弦楽のための(1989)
 林 光  :《八月の正午に太陽は……》(1997)
 西村 朗 :アストラル協奏曲 《光の鏡》(1998・1999改)

●演奏
 指揮:外山雄三
 ソプラノ:緑川まり
 オンドマルトノ:原田 節
 管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団

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