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November 15, 2006

「死」の無い社会

このところ、子供の自殺が相次いでいる。
その原因はいじめだと言う。
一方、親の虐待による子供の死も相次ぐ。
そしていじめへの対応を巡り、なんと当の教師までもが自殺する。
何かの変調を感じる僕である。
直観するのは「死」の無害化。
誰かが「死」んでもなんの感情の揺らぎを起こさない、
そんな人々が今たくさんいるような気がする。
それが見知らぬ人でなく、身近な人であったとしても。
見知らぬ人の「死」さえ同調して心が揺れる人はもういない。
いじめはなかった、と教師に言わせる圧力とは何か。
この数ヶ月で数人の自殺者を生みながら、
文部科学省は過去自殺者ゼロと報告書にまとめている。
「死」を排除する社会。
「死」に纏わるものを丁寧に取り除いてしまった結果が
今に繋がっているのだ、と僕は信じる。
人は「死」ぬのだ。
その悲しみを全身全霊で受けとめて、初めて人は人になるのだろう。
その経験の喪失或いは想像の欠如が「死」を殺すのだ。
「死」の無い社会では、人は簡単に「死」ぬのだ。

数々の非業の「死」を嘆け。
そんな「死」をもたらしたいじめを嘆け。
我々が作ったこの社会を嘆け。
我々は、泣き、喚き、後悔し、嘆息し、絶望するべきだ。
「死」を徹底的に嘆き悲しむことからしか、
「生」の充足に至る道は見出せないのだ。

マキャヴェッリの言うとおり、
天国に行くには地獄への道を熟知すること、なのだ。

そんなことを考えていたら、以前某所に書いた原稿を思い出した。
以下に記しておく。備忘録である。

<2005 May 5th.>
 最近J-WAVEを聞いているとスピリチュアルカウンセラー(謎な職業である)の江原某という人が「人生に価値がないと自ら命を絶ってしまう人が増えています。しかし、人生に価値があるのではなく、生き抜くことが価値なのです。」というようなことを言っている。彼の著作の広告でもあり、公共広告機構からのメッセージのようにも聞こえるが、うろ覚えとは言え覚えてしまうのだから、随分とオンエアされているのだろう。何故若くして自らの命を絶つ人が多いのか、それへの考察は後回しとして、商品価値についての例え話をしよう。

 ここにバカラのグラスがあるとしよう。美しいフォルム。極限まで薄く設えられたガラス。細密なカッティング。それにバカラという名称から連想される重みが加わり、このグラスの魅力を構成している。一方で、強化プラスティックで作られたこれとそっくりのグラスがあるとしよう。透明度、比重、カッティング、手触り。その何もかもがガラス製のものと変わらない。さあ、あなたはどちらに価値を見出すだろうか。「勿論バカラのグラスだ」と多くの人が答える。おっと僕としたことが大事なことを書き忘れた。「強化プラスティック製のグラスも、伝統あるバカラ社の製品」だったのだ。これならどうだろう。多くの人々は「それでもやはりバカラのガラス製のグラスが魅力的である」と答えるに違いない。これはどういうことだろう。

 答えはこうだ。我々は「ガラスでできた儚いバカラのグラスだからこそ」より多くの魅力を感じるのである。つまり落とせば粉々に砕け散ってしまうからこそ、この製品に強い愛着を感じることができる。この商品価値に予め織り込まれているのは「いつか喪失してしまうという予感」なのである。高級品や高額品のマーケティングで困難な課題は「それを持つ自分への幻想」の創出に留まらず、「それを失った自分への幻想」という逆説的な価値をいかに創出するか、ということなのである。内田樹の文学的な表現(『街場の現代思想』(NTT出版刊より)を借りれば『私たちが「価値あり」と思っているものの「価値」は、それら個々の事物に内在するのではなく、それが失われたとき私たちが経験するであろう未来の喪失感によって担保されているのである』ということになる。

 この指摘はマーケティング戦略に新しいパースペクティブを持ち込む。よくある「機能的価値+情緒的価値+自己表現的価値」というフレームに欠けている(或いは欠けがちな)パーツを補強するパースペクティブだ。例えば僕が現在取り組んでいる栄養飲料の商品開発においては、価値を担保する「適切な容量」の設定に有効だろう。「腹八分目」ではないが「ちょっと足りないくらい」ということがその商品の価値を強化することも想定されるべきなのだ。当たり前なこととはいえマーケティングの現場では価値を(+)なものとしてのみ考える傾向があり、上記で触れた(-)(-)=(+)というような発想は忘れがちである。慣性に逆らうことの重要さ、を痛感する僕である。(笑)

 さてもうお察しのことと思うが、若年層が若くして命を絶つという悲しい現象もここから類推することができる。若い人々は人生に(+)の価値のみを探している。それが見当たらない。だから命を絶つ。そこには「死」に対する何らの考察も見識も経験もない。「自らの死」を内省する経験や視点が一切無いことがこうした悲劇を招いている。「自らが死んだ後の視点」があれば、生はもっとその姿を現しその豊かな意味を見せてくれるかもしれないのに。「割れるグラス」の価値と同様、「いつか死ぬ自分」のリアリティを担保しているのは内田が書くとおり「死んだ後の私」という視座にほかならない。

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