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April 30, 2007

生きて死ぬ私

Ikite_sinu異邦人として読むことで改めて感じることもある。だから旅で本を読むのが好きだ。今回のパリ行きでは茂木健一郎、フーコー、バルト、レヴィ・ストロース、アイザック・アシモフ、それに内田樹をお供に。空から大地を眺める。それだけで、僕たちの精神はいつもの日常とは少し異なったモードを得る。そして、自らが何らの繋がりを持たない異国の地に降り立つ自分。何とも軽く、捕われることのない自由な心。パリの空気が軽く感じられるのは、そんな心の影響なのかもしれない。茂木健一郎30代初めの随想集「生きて死ぬ私」の気分はとても爽やかだ。若い活力と知性そして柔らかな感受性が漲っている。空を見たり、星を見たり、心を見たり。そうしたことが何故かとても大事であると再び強く思う。そして、それを愛する自分を再認識する。共感するという意味で、彼、茂木健一郎は僕そのものだ。

現代社会を生きる人間の存在価値も多重の意味の糸によって編まれている。異国の地にある僕は、一時的に糸の切れた凧のように自由だ。どこにもつかまるところがない。だから僕は僕でいられる。でも、それが本当の僕なのか。パリに1週間いれば、なんとなくここでの暮らし方が分かってくるような気がする。それはここでの糸に搦めとられていく過程なのだろうが。パリにいるとき、僕は東京にはいない。そのとき東京にいる僕と言う可能性は死んでいる。彼は無数の実現されなかった可能性の存在を僕らに向けて言う。それは「いま・ここ・わたし」とは何なのかを考えるひとつの契機を僕に与える。同時に「いま・ここ・わたし」という一点に収斂しない、切り捨てられた可能性、書き換えられた意味、かき消された歴史を指摘したミシェル・フーコーを僕に想起させる。

僕たちは、僕は何か、を問うだけでは不十分である。常に僕以外とは何か、に想像を馳せなければ。そんな思いに満たされながらマドレーヌ寺院で聴いたモーツァルトのレクイエムを、まさに実現されなかった可能性への弔いの歌として僕は捉えていた。東京を離れて心を自由に泳がせるのも悪くない。

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